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松尾芭蕉とは? - 芭蕉と奥の細道 -

松尾芭蕉

俳聖芭蕉は伊賀上野の人、通称松尾忠右衛門平宗房といい、祖先は平宗清。藤堂家の臣、松尾与左衛門の次男で、正保元年の生、母は桃地氏、四国宇和島出身と言われています。


芭蕉は幼名を金作或いは半七、藤十郎或いは甚十郎と呼ばれ、俳号を桃青または芭蕉と称しています。この外に風羅坊、華桃園などとも称していましたが、これらは、いわゆる一時的な筆名に過ぎなかったもののようです。


主君藤堂良忠の死後、感ずるところあって脱藩、松永貞徳の高弟であった北村季吟に師事して俳諧、和歌、連歌を、また伊藤坦庵について漢詩文を学び、後に造化にしたがい四時を友とし、一身を行雲流水にまかせ、旅から旅に漂白吟行して、生涯を終るを望みとした風雅の人で、蕉風俳諧の始祖となり、西鶴、近松と共に元禄の三文豪とたたえられました。その高雅寛裕の風格が、また万人から慕われ、門人も数千に及びました。


芭蕉翁が片雲の風に誘われ遊心やみがたく、門人曾良を伴い、まだ見ぬ異境の空、はるかみちのくの天地に思いを馳せ、江戸深川六間堀の芭蕉庵から遠く奥羽行脚の長途の旅に一歩を印したのは、元禄2年(1689)の晩春、正しくは旧3月27日であります。芭蕉翁46歳、曾良41歳のときでした。


こうした旅に出ようとする翁の真意は、いにしえの歌枕を尋ねて俳境をふかめ、進んで俳風の新機軸をもとめようとしたものでしょう。そのほかに西行や能因などの跡を慕う気持ちも多分にあったことは見逃せない部分です。


芭蕉の行程は、江戸を発足、日光―那須野―白河関―松島―平泉から出羽路をもとめて、わが山形県の境田に一歩を印し、山刀伐(なたぎり)峠(とうげ)を越して尾花沢―山寺―大石田―新庄―羽黒―鶴岡―酒田―象潟―大山―温海―鼠ヶ関から越後路に入り、7月15日加賀の金沢に到着、交遊をかさねて山中温泉に至り、ここで曾良は病んで独り伊勢に向かっています。芭蕉は途中8月14日気比神社に詣で、この翌日6日、今の岐阜県大垣に辿りつき門人如行の家に入ります。ここで曾良も伊勢から来て再会、9月9日お伊勢さまの御遷宮を拝さんと共に大垣から揖斐川の川舟で下りました。


以上12カ国600里(約2500キロ)、161日にわたる大行脚の魂がにじむ古典的な紀行文を「奥の細道」と称し、広く世に知られ、多くの人々から愛読されています。


この間吟詠51句、歌仙を巻くこと27回に及び、ほかに翁の著書は俳諧七部集や野ざらし紀行、鹿島詣、笈の小文、更科紀行などがあります。とりわけ奥の細道は代表的作品といわれ、多分に韻文的な要素をもつ名文で、いうなれば翁一代の金文玉句の結集となっております。芭蕉翁は元禄7年大阪で没し、近江大津の義仲寺に葬られています。享年51歳のことでした。


引用:芭蕉と出羽路 奥の細道 早坂忠雄 著(昭和63年12月5日発行)

 

2012.01.30
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