小国城跡
おぐにじょうあと
小国城跡は、JRあつみ温泉駅の南西約10km、日本海岸より東へ直線にして約6.5km入った小国集落がある。
通称楯山(標高348.5m)の頂上(集落の登り口から約40分)を通称本丸跡とした山城であり、その近接した所に通称西大屋敷跡、通称二の丸跡、通称三の丸跡、通称駒立場跡がある。
羽越国境と主要街道を守る境目の城として築城・整備された山城跡となる。
正確な築城年代は不明であるが14世紀と推定されている。
元和元年(1615)年「一国一城の制」により廃城となる。
また、城主についての詳細は明確でないが、南北朝時代(1333~1392年)の小国城主小国因幡守の名前が残っている。
山麓につくられる山城の居館の多くは大小の土塁技法の導入がみられるが、小国城のような山頂部分(高地)に築かれた山城において土塁技法(規格性のある)採用しているのは珍しいといわれている。
そのことによって内部空間の確保及び威厳性をつくりあげている。
県内の城跡の中では最大の高低差があり、戦国時代の庄内地方における武藤氏と最上氏の抗争史を物語る上で重要な、庄内地方を代表する大規模な中世山城跡である。
(写真は、通称「本丸跡」です。)
通称楯山(標高348.5m)の頂上(集落の登り口から約40分)を通称本丸跡とした山城であり、その近接した所に通称西大屋敷跡、通称二の丸跡、通称三の丸跡、通称駒立場跡がある。
羽越国境と主要街道を守る境目の城として築城・整備された山城跡となる。
正確な築城年代は不明であるが14世紀と推定されている。
元和元年(1615)年「一国一城の制」により廃城となる。
また、城主についての詳細は明確でないが、南北朝時代(1333~1392年)の小国城主小国因幡守の名前が残っている。
山麓につくられる山城の居館の多くは大小の土塁技法の導入がみられるが、小国城のような山頂部分(高地)に築かれた山城において土塁技法(規格性のある)採用しているのは珍しいといわれている。
そのことによって内部空間の確保及び威厳性をつくりあげている。
県内の城跡の中では最大の高低差があり、戦国時代の庄内地方における武藤氏と最上氏の抗争史を物語る上で重要な、庄内地方を代表する大規模な中世山城跡である。
(写真は、通称「本丸跡」です。)