歴史と文化にふれる旅

遥か昔、古の人々が築き上げた物語は、現在の私たちへ「歴史」として伝わります。そして、その歴史が生み出す生活様式や行事は「文化」へ。歴史なくして、現在の私たちの生活はありません。


そんな古の人々が体験してきた世界へ一歩近づく旅はいかがでしょう。


今回は、歴史が紡いできた文化の世界をご紹介します。歴史に興味がある方もない方も楽しめるスポットばかりです。


推しの武将や歌人にゆかりの地があるかもしれません。山形にお越しの際に一度チェックしてみてくださいね。

東北屈指の戦国大名 最上義光が礎を築いた山形城跡

山形県山形市のほぼ中央、約35.9haの広大な土地を有する山形城跡があります。第二次世界大戦後は「霞城公園」として一般公開されています。


延文元年(1356年)に羽州探題として山形に入部した斯波兼頼が築城し、現在の城郭は第11代城主最上義光が築いたものが原型とされています。本丸・二ノ丸・三ノ丸の三重の堀と土塁で囲まれた、全国有数の規模を持つ輪郭式の平城。出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れて見えなかったことから「霞ケ城」とも呼ばれていました。


春には約1500本の桜が咲き誇る山形市随一の桜の名所です。最上義光の騎馬像と桜はフォトスポットとして人気。義光公の勇ましさと桜の可憐さのアンバランスさが見る人を虜にします。公園内やその周辺には、明治時代に建てられた擬洋風病院建築「旧済生館本館」を移築復原した「山形市郷土館」や山形県立博物館、山形美術館などの文化施設もありますので散策もおすすめです。

城下町の名残を感じられる新庄城跡

山形県新庄市にある最上公園。新庄城跡を整備して作られた公園です。堀や石垣は寛永2年(1625年)に完成した新庄城の当時のままの状態を残しており、かつての城下町の名残を感じられます。


公園内には、戸沢神社・護国神社・新荘天満宮など、祭神が異なる神社が点在しています。異なるご利益が得られるため、神社巡りもおすすめ。新荘天満宮は藩政時代から現存している唯一の建造物でもあり、悠久のときを感じられますよ


新庄市の名物「新庄まつり」は、初代新庄藩主戸沢政盛が新庄城を築城してからの戸沢家ゆかりの寺や神社を舞台としており、今も続く伝統的な行事です。新庄市固有の風情は歴史が紡いできたのかもしれません。

歴史と文化に浸る 上山城郷土資料館

山形県上山市にある上山城(月岡城)。厳密には一度、幕府に取り壊され、資料館として甦りました。最上氏の最南端の城塞として米沢藩の伊達氏や上杉氏との攻防の舞台となった歴史があります。


1982年(昭和57年)に二の丸跡に3層の模擬天守閣が建立され、290年ぶりにその姿を表しました。その外観が私たち訪れたものを魅了します。古き良き時代の雰囲気に浸りながら歴史的な建物の中で展示された資料や展示物を楽しめます。


また博物館体験を豊かにするための体験型展示やイベントが定期的に開催されています。ワークショップやデモンストレーション、特別なイベントなど、訪れた人々が参加できます。体験を通して教養や伝統を学べる良い機会になるでしょう。

戦国最強の武将 上杉謙信を祀る 上杉神社

山形県米沢市にある上杉神社は、米沢城本丸跡地に建立され、「毘沙門天の化身」という異名を持つ戦国最強の武将「上杉謙信」を祭神としています。


参道にある舞鶴橋には、上杉謙信が信仰していた毘沙門天の「毘」と全軍総攻撃の合図として掲げられた不動明王を意味する「龍」の軍旗が。仏教を篤く信仰した上杉謙信は、合戦に際して毘沙門天と不動明王という最強の両神を味方につけて戦ったとされています。


神社に入ると神聖な雰囲気が漂います。戦国最強の武将だけあり、開運招福や諸願成就が叶うとされていますよ。


「上杉神社稽照殿」は歴史好きにはたまりません。刀や甲冑、絵画など上杉家由来の宝物約300点も展示されています。あの智将・直江兼続の「愛」の文字で有名な兜も収蔵されています。また、近くには「なぜば成る なさねば成らぬ 何事も」の言葉で知られる上杉鷹山が祭神として祀られている「松岬神社」。上杉家の歴史や文化を存分に味わってください。

織田信長末裔の地 天童市 建勲神社

織田信長がかの本能寺の変で自害し、長男信忠も討たれました。そこで織田家は潰えてしまったのでしょうか。実は、次男である信雄の系統は、小幡藩(現在の群馬県甘楽町)や高畠藩(山形県高畠町)を治め、その後天童市へたどり着きます。


国替えをしながら存続し、たどり着いたのが、山形県天童市というわけです。そこで、天童織田藩が成立しました。実は、天童織田藩は明治まで続いたのです。


そういった所以から尾張から遠く離れた山形の地に織田信長を祀る神社「建勲神社」が建立されました。なぜ、建勲神社という名称かというと、天童織田藩が多大な犠牲を払いながら新政府に貢献したことにより、明治政府から信長に建勲神(たけしいさおのかみ)の神号が与えられたことが由来のようです。


天童市には、天童織田藩の歴史に触れられるスポットが数多く残っています。信長公にもっとも似ていると言われる肖像画がある「三宝寺」、文化と歴史を伝える「天童織田の里歴史館」「舞鶴山」なども併せて巡ってみてください。

二体の即身仏が祀られている 砂高山 海向寺

かつて秘仏とされ、地元の人々により尊ばれてきた即身仏。飢饉や病の苦しみや悩みを代行して救うために修行に挑み、自らの体を捧げて仏となられた方を即身仏といいます。即身仏への修行を途中で投げ出すことは許されず、修行に耐え抜いた者のみが即身仏となれたのです。現在は即身仏になりたいと望んでもなれない大変貴重な仏様です。


山形県酒田市にある「砂高山 海向寺」。ここには、2体の即身仏が祀られています。一つの寺に2体が祀られているのは、全国でも海向寺だけ。


海向寺は今から1200年前に真言宗の開祖弘法大師空海が開いたと伝えられています。湯殿山信仰の行者である即身仏は弘法大師「空海」の「海」の字を一字いただき、衆生済度を身近な形にして、人々の祈りを守ってきました。言葉や文字だけでは語れない空間の中、人々の祈りと願いの架け橋として存在し、歴史の中に座り続けています。

山形城主 松平忠弘自らが作庭した池泉回遊式庭園 もみじ公園

山形県山形市の中心部にある「もみじ公園」。かつて「宝幢寺(ほうどうじ)」があった場所です。宝幢寺は、奈良時代に行基によって開かれた古刹で、最上家の祖である斯波兼頼によって南北朝時代に山形城下に移されたとされます。


なんと近年見つかった資料によると、山形藩主であった松平忠弘が城内の本丸庭園を作り直した際に余った石と紅葉の木を使い、自ら作られた庭だそう。松平忠弘は山形城主のほかに播磨姫路藩、宇都宮藩、白河藩の藩主も歴任した大名。そんな大名が自ら手掛けた庭は秋になると紅葉が素晴らしく風情があります。


池泉庭園に面して建つ「清風荘」と茶室「宝紅庵」。今は山形市の中央公民館分館としても使用されているため、茶会などのイベントも行われます。清風荘から庭を眺めると水面に映る逆さ紅葉がたいへん綺麗です。

山形繁栄の礎を築いた虎将義光の歴史を辿る 最上義光歴史館

山形県山形市の中心部に位置する「最上義光歴史館」。日本風の切妻造りの屋根、建物自体はヨーロッパ風の建築様式が用いられ、前庭との調和のとれた美しい建物です。


最上義光(もがみよしあき)は出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将。合戦の際の勇猛果敢な戦いぶりから「虎将」とも称されました。全国第5位の57万石を領した出羽最上家第11代当主にまで上り詰めた武将です。


館内には長谷堂合戦の際に身につけていた「最上義光公所用三十八間金覆輪兜」をはじめ、甲冑、指揮棒などの遺品、長谷堂合戦図屏風、山形城本丸のふすま絵等の絵画類や調度品等、多数展示されています。


そんな最上氏の興亡にまつわるエピソードを学びながら、戦国時代の武将の姿勢や文化に触れてみてください。

今なお殿さまが住み続けているまち 鶴岡市

山形県の日本海側にある鶴岡市。2022年、庄内藩主酒井家が入部して400年が経ちました。鶴岡市は、今もなお殿さまが住むまちです。


酒井家は、3代忠勝の代に庄内へ入部。酒井家は徳川家とゆかりある家系で、新田源氏を祖とし松平親氏を父とする兄弟家です。酒井家初代忠次は、徳川家康の義理の叔父でもあります。家康第一の功臣として徳川四天王筆頭と称された大物です。


江戸後期、9代忠徳は「藩校致道館」を創設。藩政を担う人材育成のため、「個性伸長」「自学自習」を旨とし、荻生徂徠の「徂徠学」を教学した先進的な教育が行われました。現在でもその多くが残り一般公開されています。東北地方に唯一現存する藩校建造物であり、国指定史跡に指定されています。


鶴岡のまちは、降り立ったその瞬間から空気が違うとも言われるほど歴史が根づく地。一度、空気を感じに来てください。

東洋のアルカディア イザベラ・バードが見た本当の日本「置賜盆地」

イザベラ・バードは、イギリス人の女性旅行家で数多くの著書も執筆しています。そのイザベラ・バードが東京や横浜ではなく、本当の日本を思い旅した先が東北でした。


新潟県との県境の山形県の小国町へ足を踏み入れたのは明治11年(1878年)7月。約70kmの越後米沢街道の十三峠を旅したなかで、宇津峠の頂上でみた置賜盆地の景色を「日本の花園のひとつ」と描写しています。


その後、川西町や南陽市の赤湯温泉で宿をとり、置賜盆地を「実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である」と称賛します。イザベラ・バードの足取りを辿りながら山形を旅するのはいかがでしょう。


※写真は、南陽市十分一山です。

かつて栄えた銀山で思いを馳せる 延沢銀山遺跡

銀山温泉街から約15分のところに「延沢銀山」はあります。現在は、国指定史跡で近世鉱山史の研究にとって欠くことのできない遺跡です。


延沢銀山は室町時代から採掘が行われ、江戸時代を代表する銀山の一つでした。最盛期には、島根の石見銀山、兵庫の生野銀山とともに三大銀山と呼ばれましたが、その後は銀の量が減り、1689年(元禄2年)には大崩落が起きて廃山になりました。


そんな延沢銀山遺跡は中に入れます。歩道橋が付けられ照明設備も整っているので、銀坑洞内の黒ずんだ岩肌の中を探索してはいかがでしょう。息をのむ静けさとひんやりとした冷気は、まるで別世界に迷い込んだかのようです。

源義経と芭蕉に思いを馳せる 最上川舟下り

平家を滅ぼしたのちに、兄の源頼朝に追われる身となった源義経。義経一行は、追ってから逃れ、奥州平泉(現岩手県)の藤原秀衡を頼って逃れる途中に清川(現庄内町)から最上川へ。舟の帆をはり、川を遡ったとされています。


それから約500年後に松尾芭蕉は曽良とともに最上川へ。芭蕉は義経の足跡を辿る旅をしたのでした。奥の細道の旅で一番長く滞在した山形県。「五月雨を集めて早し最上川」の有名な句は最上川の船下りの途中で詠んだと言われています。


さて、現在の最上川舟下りは、義経と芭蕉のゆかりの名所を船頭とともに巡ります。義経の馬を休憩させたと言われる「馬爪岩」や義経の従者・海尊が修行し、海尊を祀る「仙人堂」は見る人を魅了します。白糸のように一筋に落ちる高さ120mの「白糸の滝」も季節ごとに色を変えます。冬の舟下りは、まさに水墨画。迫力満点な舟の旅は、義経と芭蕉の2人の旅路が決して楽なものではなかったと実感するでしょう。

山形が紡ぐ歴史と文化を体験しにきてください

山形県の歴史の中には、遠い国の大名や有名な俳人などが度々登場します。今では、日本中どこでも、はたまた海外までも自由に行き交える時代。しかし、かつては同じ日本でも遠い国だったことでしょう。


命からがら逃げてきた義経公や天童市での織田家の存続の物語は心が踊りますね。また戦国武将たちの言葉は現代の私たちへも通じるものがあります。


そんな山形の地で築かれた歴史や文化を体験しにきてくださいね。

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